地域の紹介
 

 筑波山西方,下妻市北東部の騰波ノ江地区から関城町,明野にかけて,見事な水田地帯が広がっている。ここは,その昔,万葉歌人が「つくばねのもみぢちりしく風吹けばとばの淡海に立てる白波(鳥羽の淡海)」と,歌にも詠んだ騰波ノ江(鳥羽の淡海)跡である。この歌からも,万葉の時代,多くの人々がこの湖の美しさに心を奪われたことがうかがえる。
 まぼろしの湖沼,鳥羽の淡海は,いつごろ姿を現し,そしていつ頃姿を消得ていったのだろうか。
 鬼怒川は約二千年前,現在の流路になり,下妻市南部を東流し,比毛の所で小貝川と合流していた。鬼怒川の東流と付近の隆起によって小貝川が堰き止められ,その北側にできたのが鳥羽の淡海である。「常陸国風土記」筑波郡の条によると,「郡の西十里に騰波江あり,長さ二千九百歩,広さ一千五百歩なり。東は筑波の郡,南は毛野河,西と北とは並に新治の郡,艮(うしとら)のかたは白壁の郡なりし」とあり,その当時の湖の様子がしのばれる。
 しかし,この美しい湖沼も鬼怒川の流路が突然,石下方向への南流に変わると,その面影を失い始めた。その後,千年余り不毛の土地であった鳥羽の淡海は,明治の近代的な水利事業をきっかけに現在では多くの恵美を地域の人々に与えてくれている。
 そこで,この鳥羽の淡海が,現在の見事な水田地帯へと姿を変える様子を,大宝干拓に求めてみたい。大宝沼は,鳥羽の淡海の一部であり,それと起源を同じくする。
 干拓の歴史は,江戸時代までさかのぼる。そのころ新田開発が全国的に盛んとなり,下妻市域にもいくつかの新田村が生まれた。これと並行していくつかの用排水路が設けられ,大宝沼は南に広がる平沼と会わせて大宝平沼とも呼ばれ,大宝,騰波ノ江地区十五カ村の用水源として利用されるようになった。
 十八世紀に入り幕藩体制の立て直しのため,八代将軍吉宗は享保の改革に着手し,年貢増徴策のひとつとして,全国的に新田の開発を奨励した。この政策は下妻市域にも及び大宝平沼の干拓が進められた。
 一方,湖の干拓により溜池水源の機能が低下したため,その代替用水として開削されたのが江連用水である。しかしこの用水も十八世紀後半には,鬼怒川のすいいが低下したうえ,浅間山の噴火も手伝って水路が役に立たなくなった。そのため,やむなく,大宝平沼の干拓地は再び水面下に姿を消した。
 その後,大宝沼は百三十年以上も溜池として利用されてきたが,黒子堰から用水をひくようになると,その機能を失い,明治から大正にかけて再び干拓が始まった。その結果,141.4ヘクタールの耕地が造成され,今日では,美田に生まれ変わっている。

(鬼怒川・小貝川サミット会議発行「鬼怒川 小貝川 自然 文化 歴史」より)

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